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ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

伯母に魂を繋いでもらい 仏壇に大好きだった果物をお供えして思うこと

ゆうりん
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ゆうりん
成瀬汐里(ゆうりん)・1969年生まれ。50歳からの心と暮らしの整え方研究家。東京と地方の二拠点生活。ライフアドバイザー、マヤ暦ライフ研究家。30年間住宅関係の仕事と家事と子育てを両立しながら、家族のお弁当も毎日作り続けて管理職も経験。子育ても終わりサラリーマンを卒業し自分のやりたいことを始めた矢先の50歳に脊髄炎を発症。リハビリに励み、現在は日常生活ができるまでに克服。病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生や健康や家族についてじっくり考え「ゆっくり丁寧に毎日を過ごそう」と決意し、日常のことやマヤ暦のことをブログで発信している。 K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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亡くなってからちょうど1年

昨日は、亡き伯母の家に行って、お線香をあげてきました。

1年前の1月19日に、私の病気が発症して、東京の自宅から田舎の自宅へ帰ってきた日に、伯母が亡くなりました。

 

帰ってきた翌日から、2日間に渡る検査でようやく病気が発見されましたが、ベットの空き待ちですぐに入院をすることができませんでした。

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しかし、そのおかげで入院前日に行われたお通夜に、少しだけ伯母の顔を見て「お別れ」をすることができました。

生きている姿を見たのは亡くなる2週間前で、お正月休み中の東京に戻る前日でした。

その時は既に意識がなく、酸素ボンベの管が痛々しく装着されていた状態でした。

 

物事を比較して考える伯母とはあまりウマが合わなかった

実は、伯母とは、正直あまりウマが合いませんでした。

私からするとですが、伯母は物事を比較をしてみるところがあり、言い聞かせるような口調も、私には苦手でした。

私のことだけならまだしも、私の子供のアレルギーのことや仕事のことにも、周りと比較をした伯母の持論を口に出して言い聞かせられることが、会うたびに繰り返されていたので、私は自然に伯母に対して苦手意識を持ち始めました。

 

私が小さかった頃は、伯母に会うのがそんなに嫌ではありませんでした。

好きか嫌いかと言えば好きな方でもありましたし、伯母も私を可愛がってくれていると思っていました。

小さい頃に、伯母が遊びに来るのが楽しみでした。

 

しかし、私にも家族ができて、伯母の比較目線と持論を押し付けられると、どうしても笑って済まされないことも何度かあって、私は自然と距離を置くようになりました。

そして、距離を置いてから次に会ったのも、約10年後でしたし、更にその後に会ったのも5年後くらいでした。

会う時は間隔をあけているので、会うたびに歳のせいか、衰えていくのがはっきりと目に見えて分かりました。

 

伯母の苦労に周りは気付いていなかった

ある時に、伯母の苦労していたことや、大変な思いをして生きていたことを、聞くことがありました。

それを聞いた時に、私や周りの親戚たちも全く知らないことだったので、なんとも言えない気持ちになり、少し伯母に対する気持ちが変わりました。

伯母は、私や周りの近しい人達にも、そういった素振りは見せていなかったので、辛かっただろうし、ある意味強い人でもあるな、と思いました。

 

そして時は過ぎてしまい、昨年のお正月休みにおじさんへ連絡を取り、お見舞いに行きました。

個室の広い病室に通されると、あの存在感が大きかった伯母が横になったままで、私の声にも反応もせずに、ただ装着されている機械の音だけしか部屋の中には響いていない状態でした。

 

伯母の幼い頃の話しに「あの時が一番幸せだった」と優しい笑顔で話す姿に

その姿を見て私は、伯母の手をさすりながら涙が流れてきました。

 

距離をあけてから10年振りに伯母のところへ行く機会があった時に、部屋に二人だけになった時がありました。

その時に、珍しく伯母が、自分の幼少期からの話しを懐かしく楽しそうに話し始めました。

しばらくその話しを、私は「うんうん」とうなずいて聞いていました。

そして話しの最後に、伯母は「あの時が一番幸せだったな」と言いました。

その時の、優しい顔で懐かしむように微笑んだ姿が蘇ってしまい、涙が流れてしまいました。

それが伯母と会った最後でした。

 

偶然にも伯母と同じ病棟の同じフロアに入院

それから2週間後に、東京の病院で、原因不明の体の痛みをみつけられず、夫に迎えにきてもらってちょうど家に着いた時に、伯母が亡くなったという知らせがありました。

そして、私が入院した病院は、最後に伯母が入院していた病院と同じ病院でした。

更に同じ病棟で同じフロアでした。

 

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伯母の魂が残してくれた

つい先日に、ある勉強会でこの話しを講師の先生にすることがありました。

すると先生は、「伯母さんが魂と引き換えに、あなたを残してくださったのね」とおっしゃいました。

 

それまで私は、「たまたま東京から帰ってきた日と亡くなった日が同じで、たまたま同じ病院のフロアになった」というくらいにしか思っていませんでした。

しかし今思えば、入院の時も痛みの原因が分かってすぐに「ステロイドパルス療法」を行ったおかげで痛みが取れ、ベットの空きがなくて1日だけ時間ができたので、仕事関係の人へ連絡をすることが出来ましたし、喪服は東京の自宅に置いてあったので「お通夜に、最後に伯母の顔を見にはいけないな」と諦めましたが、でもなぜか気持ちのどこかで「明日入院をしてしまうし、もう最後だよ」と言っている自分もいました。

そして、夫に無理を言って斎場まで連れて行ってもらいましたが、私は普段着のままでした。

私の病気のことで親戚には余計な心配はかけたくなかったので、夫に手を引いてもらいながら、斎場の人に頼んで、こっそりと伯母に最後の別れをしてきました。

 

伯母の仏壇に手を合わせて

先生から、「伯母さんが魂と引き換えに、あなたを残してくださったのね」という言葉を聞いた時に、偶然が重なり過ぎていたそのことに、初めて気付かされました。

 

昨日、伯母が好きだった苺を買って、仏壇に供えてきました。

伯父さんや孫達と伯母の思い出話しをして、少しの時間、伯母を感じながら話しをすることができました。

自分が今ここにこうして居られることに感謝の気持ちを伝えて、伯母からの魂を大切に生きていこうと思わずにはいられませんでした。

伯母さん、どうか安らかに。

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成瀬汐里(ゆうりん)・1969年生まれ。50歳からの心と暮らしの整え方研究家。東京と地方の二拠点生活。ライフアドバイザー、マヤ暦ライフ研究家。30年間住宅関係の仕事と家事と子育てを両立しながら、家族のお弁当も毎日作り続けて管理職も経験。子育ても終わりサラリーマンを卒業し自分のやりたいことを始めた矢先の50歳に脊髄炎を発症。リハビリに励み、現在は日常生活ができるまでに克服。病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生や健康や家族についてじっくり考え「ゆっくり丁寧に毎日を過ごそう」と決意し、日常のことやマヤ暦のことをブログで発信している。 K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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