マヤ暦と易経から読み解く不思議な巡り合わせに込められた大切なメッセージ④
ここのところ不思議だな、と感じることが起きています。
それは、私が数年前に病気になったことから「今に繋がった」ことを実感することがありました。
前回は、郡山の病院でようやく病気が見つかった話と、伯母(私の絶対反対KIN)の死、主治医のKINナンバーについて、シンクロが重なっていることを書きました。
前回の話はこちら
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マヤ暦と易経から読み解くと全ての出来事には意味があり準備されていたと実感③
今回は、入院した日について書いています。
この日のKINナンバーからのメッセージに、大きな意味があったと感じています。
マヤ暦から読み解く、この不思議な体験を読んでみてください。
伯母の火葬の日に入院
私が入院をした日は、KIN195の日でした。
2日前に、「脊髄炎」という診断結果は出たものの、ベットの空きがなく、この日になりました。
私が入院した病棟は全て個室になっていて、私は4階にある部屋に案内されました。
その階は部屋は違っていましたが、私が伯母のお見舞いに2週間前に訪れていたフロアと同じ4階でした。
そして、私が入院したこの日は、伯母の火葬の日でもありました。
「2週間前、この病院に入院する伯母さんのお見舞いに来ていて、同じフロアに今度は私が入院するなんて・・」と、不思議な感じでした。
入院してから分かった現実に衝撃を受け
この日から、本格的にステロイドパルスの治療が始まり、顔が赤くなり、むくみも出てきました。
それでも今までの胴回りの痛みに比べたら、そんなことは私にとって全く気にならないことでした。
しかし、入院2日目に痛みは無くなりましたが、脚に力が入らずに歩くことができません。
病室は個室だったので、トイレが付いていたので良かったのですが、壁をつたいながらトイレに行くのがやっとでした。
今までは、痛みでお腹に力が入れられなかったから、それに慣れてしまって脚に力が入らなくなってしまったのかと思っていました。
しかし、自分の体の異変を感じずにはいられませんでした。
ベットから廊下に出るドアまでの距離が、誰かの支えがないと歩けないのです。
その日の夕方の回診の時に、脚に力が入らず思うように歩けないことを伝えました。
すると先生からは「脊髄の損傷が腰と脚の動きに影響が出るところでした。リハビリを早めに開始しましょう。じゃないと回復が遅くなるどころか、後遺症が残る可能性が高くなります」と言われました。
この時の衝撃は相当なもので、この日はベットに横になったまま起き上がることができませんでした。
闘病のことも記事に詳しく書いていますので、そちらも読んでみてください。
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【脊髄炎発症前症状】ウイルス感染の高熱と外耳炎を甘くみてはいけない!
入院したKIN195に重なった3つのこと
まず一つ目が、このKIN195というナンバーが持つ紋章は、私のガイドの紋章「青い鷲」の他に「青い夜」、そしてこの日のガイドの紋章は、私のウェイブ・スペル(潜在意識)の「青い嵐」です。
私のガイドの紋章「青い鷲」は、何か気になることがあった日や、後々に影響を及ぼす日には、この紋章のエネルギーが流れていることが多いのです。
この日も、「青い鷲」の紋章のエネルギーが流れていて、且つ私のウェイブ・スペル(潜在意識)の「青い嵐」がガイドでした。
自分に深く関わりがある2つの紋章が関わっていた日でした。
2つ目は、この日のKIN195の「鏡の向こう」のKINナンバーについてです。
「鏡の向こう」は、過去世からもらうメッセージと、あるシニアアドバイザーの方の講座で聴いていました。
KIN195の「鏡の向こう」のKINナンバーはKIN66。
KIN66は、「白い世界の橋渡し」の紋章の音1です。
音1なので、「白い世界の橋渡し」の紋章のだけになります。
「白い世界の橋渡し」の紋章のキーワードは、
- 死と再生
- 橋渡しの力
- ゆだねる
- 機会
などがあります。
まさに「死と再生」で「死んだつもりで真剣に生きていきなさい」というメッセージを受け取り、「生きてもいいんだ」と思うことができました。
このことを知ったのは、マヤ暦を勉強して1年くらい経ってからのことでした。
その日はちょうど私の鏡の向こうのKIN170のアドバイザーの友人と、夕飯を一緒に食べる約束をしていた日でした。
この巡り合わせも不思議な感じでしたし、このメッセージを読み解いた時はなんとも言えない、感謝の気持ちで涙が溢れてきました。
そして、私が退院した日のガイドには、またしても「白い世界の橋渡し」の紋章が流れていました。
もうこれ以上は治療を続けられないので、自然治癒に任せましょうと言われ、直ぐに退院の日を決めなければならなかった辛さもありましたが、退院の日はKIN218で、ガイドに「白い世界の橋渡し」と「白い風」「赤い月」が流れてした日でした。
ガイドに「死と再生」を意味する紋章だったことにで、「生きる」というメッセージが込められていると感じています。
そして3つ目が、亡くなった伯母の娘でもあり、私の従姉妹のこの時の年周りのKINナンバーが、なんとKIN195だったのです。
従姉妹からすると、母親である伯母をおくる役割の年だったのかと感じました。
そして、私が入院をして、私の命を繋いでくれたことと深く関わっていたのではないかと、今でも強く感じています。
次はKIN195から、私が今迎えているKIN196へ繋がれていることについて、書いてみたいと思います。
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