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ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

マヤ暦と易経から読み解くと全ての出来事には意味があり準備されていたと実感③

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成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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ここのところ不思議だな、と感じることが起きています。

それは、私が数年前に病気になったことから「今に繋がった」ことを実感することがありました。

 

前回は、東京の病院では病気を見つけることができなかったので、郡山に戻ってきた話をしました。

前回の話はこちら

マヤ暦と易経から受け取ったメッセージは”命を大事にすること”だった②

 

今回は、郡山に帰ってきてから入院をするまでの話になります。

マヤ暦から読み解く、この不思議な体験を読んでみてください。

体の痛みはピークに達して横になることができない

郡山に帰った翌日、地元の大きな総合病院へ夫と早朝に出かけました。

大きな病院なのでとても混み合います。

 

夫の「早く診察をさせたい」という想いと、私も「早くこの痛みの原因が知りたい」という思いから、早めに家を出て、夫は順番待ちの整理券を受け取るために並んでくれました。

1月の寒い朝でした。

 

実は、前日の夜中から体の痛みはピークに達していて、寝室のある2階へは上がれない状態でした。

1階の和室に布団を敷いてもらって寝ることにしたのですが、元気な時には感じませんでしたが、横になるにも寝返りをうつにもお腹周りの筋肉を使うので、何気ない動作でも痛みが生じて一睡もできなかったのです。

 

2階で寝ていた夫を夜中に携帯電話で起こし、一緒に和室で寝てもらいました。

しかし痛みで眠れない私は、リビングのソファーで座ったまま背もたれに背中をつけることもできずに、直角に近い状態で座りながら、激しい痛みに「痛い!痛い!」と明け方まで声に出していました。

 

そんな状態の私を目の当たりにし、日の出と共に夫は病院へ向かう準備を始め、朝食まで作ってくれました。

病院に到着して順番待ちの整理券を受け取ると、車の中で待っていた私を車椅子に乗せ、病院内へ連れて行ってくれました。

 




主治医は宇宙からの使者⁉︎と思わせてくれるようなシンクロが!

早速受付の女性とヒアリングをし、午前中は内科、午後は神経内科で診てもらうことになりました。

午後の神経内科の先生が待つ診察室へ入ると、30代中頃のハキハキとした賢そうな男の先生がすぐに問診を始めました。

 

私は、他の病院で見てもらったこと以外の今までの経緯を話しました。

先生は私の話を聞きながら、時々簡単な動作や目の動きなどを私に指示をし、私の様子を確認しながら「僕の見解だと”脊髄炎”という病気ですね。すぐに詳しく検査を始めましょう。」と言いました。

 

今まで聞いたことがない病名だったので、「それはどういう病気なんですか?手術をしないと治りませんか?いや、手術をすれば治りますか?」と私は先生に質問をました。

質問をしながら私は、東京の病院で経験をしたように「今度はこの病院で検査を断られたらどうしよう…」という不安を持ちながら、先生に質問をしていました。

 

なぜなら、この数日間で採血検査を何度もやっていたり、点滴も打っていたので、両腕はすでに真っ青になっていて血管が分からない状態でした。

「まずは採血をしましょう」という先生の言葉に、今までの経緯を話したことに付け加え、「先生、実は…」と、他の病院でも診てもらっていたことを、真っ青になっている腕を見せながら先生に話をしました。

 

先生からは「今まで不安でしたね、大丈夫です。」という言葉を受け、私は心がふっと軽くなり、涙が自分の頬を伝って流れていくのを感じました。

すぐに2日間にわたる検査が始まりまり、採血をするために腕を看護師さんへ見せましたが、青くなった腕からは血管が見えないので、手首の血管に針を刺して採血を行いました。

 

MRI検査、CT検査、髄液検査、血液検査を細かく行い、検査の結果は先生の見解通り「脊髄炎」と診断されました。

 

 

この時が主治医となる先生との出逢いでした。

今も月に1度定期的に診察に通っているので、先生にお世話になっています。

 

先日、思い切って先生に誕生日を聞きました。

先生は少し驚いたようでしたが、快くおしえてくれました。

 

なんと、先生のKINナンバーは”KIN131″で、宇宙のど真ん中に生まれた人、且つ私と同じ「青い猿」の紋章を持つ人だったのです!

約2年半、先生のKINナンバーを知らずにいましたが、”KIN131″であることを知った時は驚きと「やっぱり何か関係性が会った人だったんだ!」と納得をしました。

 

 

ベットの空きがなく入院の日が2日後だったことにも意味があった

2日間にわたる検査の結果を受けましたが、残念ながらベットの空きがなく、このまま入院という流れにはいきませんでした。

 

看護師さんからは、入院できるのが最短で2日後になると言われた後すぐに、病気の進行と痛みを抑えるために、検査の結果が出たこの日の午後から、「ステロイドパルス治療」が始まりました。

点滴で体内に薬を投与していく治療なので、体にメスを入れることのない治療法でした。

 

夕方にステロイド薬の投与が終わり入院の説明を受ける頃には、あんなに痛かった体の痛みが信じられないほど消えていました。

自宅に戻り、夕飯も味わって食べることができました。

 

そしてこの日は、久しぶりにゆっくりお風呂に入り、安心して寝ることができました。

 




私の「絶対反対KINの伯母」と最後の別れができたことも準備されていた

翌日は、何か不思議な力が働いていたのかと思うくらい有難い一日でした。

前日に出た検査結果から、すぐに治療を始めなければならないのにも関わらず、ベットの空きがなくて入院ができない状態。

 

しかし有難いことに、この日は痛みは和らいだ状態だったので、仕事関係の方々へ病気でしばらく休むことを伝えることができました。

そしてこの日の夜は、私が郡山に帰ってきた日に亡くなった、私の絶対反対KINの伯母のお通夜の日と重なったのです。

 

私が病気になっていること、明日から入院をすることは、私の家族と両親にしか言っていませんでしたので、伯母のお通夜には行くつもりはありませんでした。

しかし、夕方になるに従って、「伯母へ最後の別れがしたい」という気持ちが強くなってきました。

 

伯母は私が小さい頃に、よく家に遊びにきていました。

私が社会人になり、結婚をし、子供を産んだ頃から、ちょっとしたいき違いで私との仲がギクシャクし始め、あまり会うことはありませんでした。

 

最後に会ったのはちょうど2週間ほど前で、私が東京へ戻る前日でお見舞いに行った時でした。

その時の伯母は酸素マスクを付け、意識もなく、こちらの言葉に反応もできない状態でした。

 

仕切り屋で、一言多くて、料理上手で、いつも身なりを綺麗に整えていた伯母の姿は、どこにもありませんでした。

伯母の手をさすりながら涙が止まらなかった私は、心の中で「ゴールデンウィークにまた来るね」と言って、病室を後にしましたが、この日が生きている時に会った最後の時でした。

 

なので、お通夜の時間が近づくにつれ、「今日を逃したら、一生後悔する」と思い、私は仕事から帰った夫に頼んで葬儀会場へ連れて行ってもらいました。

 

私が会場に着いた頃はちょうど奥の会場で、参列者が食事をしていた時でした。

「助かった」と思い、こっそり伯母と最後のお別れをして帰ろうと思い、眠っているように穏やかな顔の伯母に話しかけて最後のお別れをしていましたが、伯母の娘でもある私の従姉妹が奥から出てきました。

 

「どうしたの⁉︎ 帰って来れたの?」とびっくりした様子でしたが、「こっちでも仕事があってね…」とはぐらかしながら、急いでいることを装い、体の具合が悪いことを悟られないように会場を出ました。

しかし、夫に支えられながら思うように動かない脚を引きずりながら歩いていたので、従姉妹は私の異変にすぐに気付いてしたようでした。

 

 

私が読み解いたこと

今思っても不思議でしすが、私が郡山に帰ってきたことを見届けて伯母は旅立った気がしてなりません。

もし、ベットが空いていてすぐに入院をしていたら、伯母に最後の別れをすることはできませんでした。

 

これも、導かれていたように準備されていたと思います。

伯母は私の絶対反対キンのKIN221なので「赤い龍」と「赤い月」の紋章、易経は「火地晋」の人でした。

  • 赤い龍・・・生命を大切にする、生命を育む、母性のエネルギー
  • 赤い月・・・浄化、新しい流れ、水の力
  • 火地晋・・・諦めていたものが戻ってくる

このタイミングで、この2つの紋章と易経が持つ意味はとても深く、東京の病院で診察を断られた時に諦めかけた私に、伯母が繋いでくれた命ではないのかと思わずにはいられません。

 

そして最近分かった、主治医のKINナンバーもそうです。

先生のKINナンバーは”KIN131″で、宇宙のど真ん中に生まれた人、且つ私と同じ「青い猿」の紋章を持つ人だったので、解釈が自分優位かもしれませんが、「先生は私を助けるための使者だったのかもしれない」と勝手に思っています。

青い猿・・・高い精神性、精神的生命を育む、深刻NG、頑張るよりも楽しむ

 

「信じるものは救われる」ですかね。

だけどシンクロまみれの体験に、そう思ってしまう私なんです。

「青い猿」の私なので。笑

 

次は、私が入院した日に受け取ったメッセージを書きますね。

 

 

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成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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