成瀬汐里"LINE公式登録"・"お問い合わせ"はこちらから

ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

鹿屋航空基地史料館と知覧特攻平和会館から特攻隊が最後に見た開聞岳の旅

WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -
成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
詳しいプロフィールはこちら

ずっと行きたかった「鹿屋航空基地」と「知覧特攻平和会館」

「神風特攻隊」という言葉を、はじめて聞いてから30年。

今年の誕生日に、導かれるように行くことができました。

神風特攻隊を知ったきっかけ

私が「神風特攻隊」という言葉を聞いたのは、中学の社会科の授業でした。

「第二次世界大戦の終盤、負けが見えてきた日本は体当たり作戦として”神風特攻隊”が編成され、お国のために死ぬのは、当時は当たり前のことだったんだよな…」

と先生が言った言葉に、それまでボヤっと聴いていた授業に、集中した瞬間でした。

 

その後、先生は続けて、

「特攻隊員は、”天皇陛下万歳!”と言って敵国へ体当たりしたと伝えられているが、本当は“お母さ〜ん”と言って突っ込んでいったんだぞ。今のお前たちと、2〜3歳ぐらいしか違わない子供達も、体当たりして死んでいったんだよな…」

と、切なそうに言いました。

 

その話に衝撃を受けた私は、それ以降の人生で、「神風」や「特攻隊」という言葉を、耳にしたり目にしたりすると、気になるようになりました。

 

 

人生のステージで思い出していた

はじめて「神風特攻隊」を知ってから、今回の誕生日までに、当たり前のように成人を迎え結婚をして子供を産んで育てました。

その時々で、「神風特攻隊」で亡くなった人の年齢を重ねることがありました。

 

成人式を迎えた時、夫と結婚する時、息子が生まれた時、息子が特攻隊と同じ年頃になった時、息子が成人を迎えた時。

「こんな時、どんな気持ちだったのかな」と、特攻隊員の立場になったり、婚約者の立場に立ったり、小さい子供を抱えながら夫を亡くした奥さんの立場に立ったり、子供を特攻隊で送り出した母親の立場に立ったり。

 

今の私は、息子を社会人まで育てることができた、平凡ではありますが幸せな一人の母親です。

「お国のために、敵国の艦隊へ体当たりをして潔く散ります」は、どの立場に立っても、やはり今でも受け入れ難いのが本音です。

 

平和、平凡、笑顔で暮らせる、それだけで幸せなことなんだと思います。

 

 

「永遠の0」を読んで更に想いが強くなった

会社員時代、私の父と同世代の方が同じ職場にいました。

その方は、私が本好きなことを知っていたので、自分が良いと思う本を貸してくれました。

 

その中に「永遠の0」という本がありました。

「これはとても感動した本だったので、是非成瀬さんにも読んでほしいと思って」と言いながら、手渡してくれました。

 

「特攻隊」のことは気にかけはいたものの、本屋で立ち読みをするかインターネットで見るくらいで、正直、戦争ものの本や映画を進んで観ることはありませんでした。

なので「永遠の0」も、1か月くらい借りたまま読まずに家に置いてありました。

 

時々「永遠の0読みましたか?」と声をかけられていたので、私は「すみません、なかなか読めなくて…」と濁していました。

しかし、いつも借りた本を返す時には感想を伝えていたので、読み始めることにしました。

 

読み始めると、「特攻隊」の話しであるのが分かりました。

美談ではなく、人間が生きるか死ぬかを突きつけられた時に思う本当の気持ちが伝わってきました。

 

あまりここでは触れませんが、特に印象に残ったのが、最後の50ページとプロローグとエピローグです。

生きて帰ることだけを望んでいた主人公の宮部久蔵の心の葛藤と、特攻に旅立ち死んでいく描写が描かれていて、その情景が浮かんできました。

 

「いつか、鹿屋基地に行きたい」そう思うようになりました。

そして今年の誕生日に、鹿屋基地に行くことができました。

 

 

鹿屋航空基地史料館

-内部に展示されている零戦-

「鹿屋基地」は、今でも「海上自衛隊 鹿屋航空基地」として在ります。

敷地内には「鹿屋航空基地資料館」が在り、戦争の歴史から現在に至るまでの変遷を見ることができます。

 

建物の外には、歴代の航空機が展示されていて、一際目を惹きます。

資料館の中には、いつから特攻が始まりいつまで続いたのか、飛び立った方の写真と年齢が時系列に展示してありました。

 

「知覧特攻平和会館」同様、特攻で飛び立った人達の写真と遺書が展示してありますが、改めて平和な時代に生まれ生きていることに感謝の気持ちが込み上げてきます。

遺書を読むと、飛び立つ方々の人生の背景が浮かんできました。

 

結婚を約束していた人へ宛てた内容のもの、子供が生まれたばかりの家族へ宛てたもの、母親への感謝の気持ちを綴ったもの、一人一人の人生と特攻で旅立つ前の心境が伝わってきて、胸が熱くなります。

 

鹿屋航空基地資料館 詳細

所在地 鹿児島県鹿屋市西原三丁目11-2
TEL 0994-42-0233
FAX 0994-42-0233
開館期間 12月29日〜1月3日を除く毎日
開館時間 9:00〜17:00(16:30までに入館)
入館料 無料
駐車場
ホームページ 鹿屋航空基地資料館

 

鹿屋航空基地資料館 地図

 

特攻隊で亡くなった人の数

 

資料館には、初めて特攻として出撃した日から終戦日当日まで、特攻隊員として旅立った人達の写真が展示してありました。

敗戦と分かっている終戦当日まで、若い人達の命が消えていったのかと思うと、言葉では表現できない悲しさが込み上げてきました。

 

鹿屋航空基地資料館の様子

館内は一部を除いて撮影禁止となっています。

海上自衛隊 鹿屋航空基地内に在る「鹿屋航空基地資料館」

 

-鹿屋航空基地資料館内部から見た景色-

 

-外に展示されている零型-

 

-零戦のコックピット-

 

-内部展示物①-

 

-内部展示物②-

 

-内部展示物③-

 

-内部展示物④-

 

-内部展示物⑤-

 

知覧特攻平和会館

実は私は、特攻隊といえば「鹿屋基地」だけだと思っていました。

夫の友人から
「特攻は知覧が有名だよ」
と言われたことがきっかけで、知覧を知りました。

 

「大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊」として、昭和16年の飛行場完成から昭和19年までは、飛行兵の訓練場として使われていました。

知覧は「陸軍」、鹿屋は「海軍」ということも、今回知ることができました。

 

史料館にある、特攻で亡くなった方の遺影には、どの戦闘機で出撃したかが書いてありますが、「海軍」で使われていた「神風」や「零戦」といった記載はなく、ほとんどが「疾風」や「隼」といった戦闘機の名前でした。

 

知覧特攻平和会館 詳細

所在地 鹿児島県南九州市知覧町郡17881
TEL 0993-83-2525
FAX 0993-83-4859
開館期間 1月1日〜12月31日(都合により休館あり)
開館時間 9:00〜17:00
入館料 個人:大人500円 子供:300円 / 団体:大人400円 子供:240円
ミュージアム知覧共通券 個人:大人600円 子供:400円
音声案内 200円/台(タブレット式)
駐車場
ホームページ 知覧特攻平和会館

 

 

知覧特攻平和会館 地図

 

内部には数多くの展示物が

特攻隊の遺影をはじめとする、遺書、その時の心境、出撃前日の様子、家族の想いを感じる展示物が数多くあります。

11:00、13:30、15:00からの30分間、当時の様子を語ってくれる語り部の講和がありますので、そちらも聴いて欲しいです。

10:00、12:00には、特攻解説映像の上映もあります。

 

沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間(けらま)列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず” 死ぬ・亡くなる” という『必死』条件の作戦でした。

 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。

 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。

 特攻部隊のうち、九州から出撃した部隊は” 振武隊(しんぶたい)”、台湾から出撃した部隊は” 誠飛行隊(まことひこうたい)” と呼称しています。

 3月26日開始された慶良間(けらま)列島海域への特攻作戦は、沖縄本島・石垣島・宮古島から出撃しましたが、4月1日沖縄本島に上陸後は、九州及び台湾から出撃するようになりました。

- 知覧特攻平和会館 HPより-

 

知覧特攻平和会館の様子

館内は一部を除いて撮影禁止となっています。

- 入口に続く道の脇にある平和を願う鐘 -

 

- 海軍  零式艦上戦闘機  1980年6月に知覧町によって引き揚げられたもの -

 

- 海軍  零式艦上戦闘機  後方からの写真 -

 

- 三角兵舎入口① -

 

- 三角兵舎入口② -

 

- 三角兵舎入口③ -

 

- 三角兵舎内部① -

 

- 三角兵舎内部② -

 

- 特攻平和観音堂 -

下記は写真に収めることができませんでしたので、知覧特攻平和会館HPより

- 一式戦闘機「隼」 平成19年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で忠実に復元された陸軍戦闘機-

- 特攻有志の像 -

 

二度と帰れない、覚悟を決めた開聞岳

-鹿児島のシンボルの1つ 開聞岳(かいもんだけ)-

 

地図

知覧特攻平和会館で語り部を聴いた時に、はじめて知った”開聞岳(かいもんだけ)”は、薩摩富士とも言われているそうです。

特攻に旅立った直後に、家族や恋人、本土に別れを決めながら、開聞岳の上空を2回旋回して戦地に向かったそうです。

 

どんな想いでこの山を観たのかを考えると、胸が締め付けられます。

富士山のように綺麗な山の形が、鹿児島市内や大隅半島からシンボルとして見ることができます。

 

-開聞岳の麓-

 

-知覧特攻平和会館から開聞岳へ向かう途中-

 

-大隅半島側からの開聞岳-

 

まとめ

-開聞岳の麓にある花瀬望比公園に建つ、戦地で戦う無事を願う親子の像-

花瀬望比公園 地図

 

初めて「神風特攻隊」という言葉を聞いた中学の社会科の授業から、ずっと気になっていた歴史のある場所へ、自分の誕生日に行くことができました。

  • 鹿屋は「海軍」・・・戦闘機は「神風」「零戦」
  • 知覧は「陸軍」・・・戦闘機は「疾風」「隼」

と、それぞれの当時の立ち位置や歴史にも触れることができました。

 

そして、知覧から旅立った特攻隊員が、今世に別れを決めるために、上空を2回旋回した開聞岳。

別名、薩摩富士と呼ばれる開聞岳は、鹿児島のどこの場所から観ても綺麗な山の形をしていて視界に入ってくる、とても印象的な山でした。

 

この山を上空から見て飛び立っていた特攻隊員の気持ちを思うと、切なくなります。

一人一人に人生があり、大切な命はどういった場合であっても守らなければならない、戦争は二度とあってはならないと感じました。

 

そして、戦争で亡くなられた方々が、未来に生きる私達のために亡くなっていったことも、忘れてはいけないことだと、改めて思いました。

九州へ行く機会がある際は、是非行ってほしい場所です。

 

 

ポチ嬉しいです!

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 50代の生き方へ

クリックお願いします!

この記事を書いている人 - WRITER -
成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
詳しいプロフィールはこちら

- Comments -

Copyright© 人生のブレイクタイム , 2023 All Rights Reserved.