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ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

昭和生まれの父親の骨折と我慢強さ 父の認知症の母への思いと花見

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成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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先月(4月)の初めに、父が骨折をしました。
私が小さい頃は、すぐ怒るし、家族でご飯を食べる時間は、NHKのニュースしか見せてくれなかったし、働いているかお酒を飲んでいるか。
「The昭和」生まれの父でした。
だから、正直いうと、あまり好きではありませんでした。
どちらかというと、嫌い寄り。
しかし、25年ほど前にタバコはやめ、今では夫が勧める時以外は、お酒もほとんど飲まなくなりました。
母の介護も、献身的にやってくれる父は、今では尊敬でしかありません。
今回の骨折で、父の我慢強さを、改めて感じさせられました。

⁡私の何気ない一言から始まった父の早い行動

事の発端は、4月に入ってすぐの日曜日に、私が実家で何気なしに、

「お父さん、うちの庭の落ち葉の片付けを、来月東京から帰ったら一緒にしてもらえない?」

と言ったことを、父は翌日に実行してくれたんです。(やることが早い、見習いたい…)

父は我が家の庭の落ち葉を片付けに来てくれた際、庭に延びていたツルに脚を引っかけて転んだそうなんです。

 

その日、そんな事は一言も言わずに、父は黙々と作業をして帰っていきました。

片付けに来てくれた日は予定があって、私は部屋で作業をしていました。

 

最後に落ち葉を袋に詰めるのは手伝いましたが、他は全て、父が一人でやってくれたんですよね。

この時既に骨折をしていた父、いつもと変わらず黙々と作業をしていた

 

昭和生まれの父の我慢強さ

2日後に、両親を花見に連れていく約束をしていたので、お昼頃に実家に行くと父が、

「ちょっとな、脚が痛くてな…」

と。

 

父は落ち葉の掃除をした日家に帰ってから、転んだ時に打った膝が徐々に痛み出し、夜に腫れあがったと言っていました。

ズボンをまくり上げて見てみると、膝がパンパンに腫れていたので、すぐに病院に連れて行きました。

 

車の中で

「だいぶ痛かったでしょ?」

と父に聞くと

「ちょっと痛かったな…」

 

と返事が返ってきました。

さすが、昭和生まれの人間。

 

「これだけ腫れているんだから、ちょっとではないでしょ」

と思いながら、病院へ向かいました。

⁡レントゲン写真を見ながら骨折してますね

午前中の受付に滑り込みセーフで診察をしてもらい、レントゲンの画像を見ながら先生は

⁡「膝の骨が骨折してますね、内出血もありますのですぐに血を抜きますね」

 

と。

目を瞑ったままベットに横になり、目の前で血を抜かれている父は、痛そうに顔をこわばらせていました。

 

この時に抜いた血の量は、なんと注射器3本分!

見ていた私の方が倒れそうでした。

 

これだけの内出血に、計り知れないな痛さだったと思いますが、父は痛いとか口に出さないんです。

古い昭和の人間なんですよね。

病院から帰宅後の父の脚が痛々しい

午前中に夕食の準備をしていた父

⁡この日は花見に行く予定でしたので、お昼は外食をするつもりで、両親も楽しみにしていましたが、スーパーでお寿司を買って、実家の庭に咲いている花を観ながら食べました。

 

食べ終わってから、私は両親の夕飯作りに取り掛かろうとしましたが、鍋の中にはすでに、

  • ⁡なめこと豆腐のお味噌汁
  • きんぴらごぼう
  • 煮魚
  • 煮物
  • 漬け物

⁡が既に作ってあり、炊飯器には夕方ご飯が炊き上がるようにセットしてありました。

 

膝が痛いのにもかかわらず、父が午前中に作っていたんです。

「少し、持っていったらどうだ? 夕飯のおかずの足しになるだろ。」

 

と、父が言いました。

本当に、頭が上がりません。

⁡母を桜を観に連れていきたいと言う父

父は次の日も、病院へ行って血を抜いてもらいました。

帰りの車の中で父が、

 

「自分の足はだいぶ楽になったし、お母さんに桜を観せたい」

と言いました。

 

「今年は、諦めたら?」

と私は言いましたが、

 

「お母さんは、楽しみにしていたと思うんだ」

と言う父を見て、連れて行くことにしました。

⁡車で15分くらいの所にある、まだ観たことがなかった千本桜を観に連れて行きました。

⁡桜並木が続く道を、私が運転をする車の後部座席から

 

「綺麗だな〜」

と、両親は目を細めながら、何度も口にして喜んで観ていました。

⁡桜が満開の並木道を、車の中から観れたのが両親にとって良かったです

 

車での移動ではあっても、父の脚が心配でしたが連れて行ってよかったと思いました。

今ではすっかり回復して、先日は家庭菜園をしていました。

⁡骨折で療養期間中も、ギプスをはめたまま、じっとはしていない父。

それはまた、次回に書きます。

 

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成瀬汐里(ゆうりん)1969年生まれ。心と暮らしが満たされる生き方|不動産投資家。ファイナンシャルプランナー、コーチングマイウェイ認定コーチ、ポジティブ心理学、元お金系認定講師、インテリアコーディネーター、マヤ暦アドバイザー。 東京と地方の二拠点生活。30年間住宅業界に従事、管理職を経験。家事、子育てを両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。50歳を迎えたタイミングで子供が大学を卒業し、社会人になったのを機にサラリーマンを卒業し起業。しかし半年後に腹部に痛みが出始め、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。 退院後1年半の病気療養とリハビリを経てほぼ完治。 病気になる以前は大きな病気もせず、体が丈夫であることが取り得だと過信していたが病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。 30年間の会社員生活を通しての経験や仕事や子育てや家事との両立、40代後半に不動産投資を開始したこと、1年半の病気療養生活から分かった日常の大切さや"あたりまえ"の愛おしさをブログで発信。自身がアドバイザーでもあるマヤ暦のことも時々発信している。 マヤ暦KINナンバー:K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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