東日本大地震から10年 当時の福島での生活【8回目】避難した子供達と離れた生活
目次
長野へ子供達が到着した知らせを受けて安堵する
夕飯の準備を済ませた後、時計を気にしながらソワソワしていました。
「そろそろ長野に到着する頃だな、無事に友達とは合流できたかな・・」
と、心配しながら連絡を待っていました。
長野の友人と、我が家の子供達との再会は6~7年振りくらいでした。
当時はまだ小学生でしたので、すっかり大きくなってしまった子供達のことが分かるだろうか、という不安がありました。
子供達には、
「大宮から長野新幹線(当時)に乗ったら、何号車に乗ったか友人と私にショートメールを入れなさい」
と伝えていました。
長野に到着した子供達から
「菜々枝さんと無事に合流したよ。これから家に向かいます」
とショートメールが入りました。
「無事に着いたんだ。良かった!」
と安心しました。
スーパーでの我が家の子供達姿に・・
自宅に到着したあとに、友人から連絡があり電話で話をしました。
「子供達は無事に着いたよ。でもさ、家に帰ってくる途中でスーパーに寄ったんだけど、子供達がね 、
うわ⁉︎ 豆腐がある!
納豆もあるよ!
こんなに沢山いろんなものが売っているんだね!
と言いながら二人で話している姿を見て、福島は本当に大変なんだなと思ったよ。こっちはいつもと変わらないスーパーなんだけどね」
と言いました。
私も
「まあね、そんな状況だね・・」
と口数も少なく返事をすると、
「子供達のことは心配しないで、たいしたことはお構いできないかもしれないけど、そっちよりは安心でしょ」
と言ってくれました。
引き受ける側の立場
後から知ったことですが、この時友達は、お兄さんに子供達を引き取ることを止められたそうです。
「万が一、福島に居る私達に何かあった場合、責任が取れないだろ!」
といったやり取りがあったそうです。
直接友人からは聞いていませんが、子供達を迎えに行った時に、お兄さんが話をしてくれました。
確かに、子供達を引き取る側としては、両親がこの先どうなるか分からない危険な地域に残ったとすれば、そう思うのは当たり前のことです。
しかし、友人が説得をして受け入れてくれたことを、お兄さんから聞きました。
本当になかなか出来る事ではないと思います。
感謝しかありません。
福島県への人と荷物の往来が難しい状況
子供達は、必要最低限のものを持って長野へ行きました。
ですので、送って欲しい物の連絡が時々きていたので荷物を送ろうとしましたが、福島県から荷物を送ることや受け取ることが困難であることが分かりました。
当時、会社へは夕方集荷に来る複数社の宅急便が来なかったり、配達も数日毎に配送される状況でした。
原発の問題もあり、他県からは往来することを拒む話も耳にすることがありました。
「こちらからは送れないな・・」
と思い、子供達に持たせた現金の中から
「長野で買いなさい」
と返信をしました。
しかしそれから10日後くらいに、私は上司と同僚と3人で県外に支店が在る、栃木と茨城へ出張をすることになりました。
この時、上司に頼んで出張先の県外の支店から、長野の子供達へ荷物を送るために、トランクに載せてもらったのを思い出します。
そして無事に、長野の子供達へ荷物を送ることができました。
出張先の他県では 計画停電が実施されていた
出張した日は高速道路が使えないので、一般道を使って茨城県へ向かいました。
その後夕方に栃木県へ向かい、宇都宮市内にある会社でいつも利用しているビジネスホテルへ宿泊しました。
当時は関東圏は計画停電が行われていました。
福島県に爆発した原発は東京電力のものでしたので、このような措置が取られていましたが、原発があった福島県は東北電力でしたので、計画停電は行われてはいませんでした。
しかし、この時の福島県内の状況も大変なものだったと、先日の地元紙のホームページで知りました。
当時の状況の記事
↓
福島民友新聞
宿泊した宇都宮市内にあるビジネスホテルは、夜は9時には消灯(定かではありませんが、これくらいだったと思います)をして、朝は、6:30〜7:00くらいの30分だけの間(定かではありませんが、これくらいだったと思います)に電気がつくので、2階のレストランで、おにぎり2個とお茶が朝食でした。
時間が過ぎると電気が消えてしまい、代わりに自家発電で非常灯がついていました。
街中でもありましたが、外を行き来する人達もまばらで、寂しい感じがしました。
いつもだと3月は、早いところだと桜の開花のニュースが日常の中でも耳に入ってくるところでもありますが、この年はあまりそういった話題は口にすることもありませんでした。
夫もだいぶ疲弊していて おにぎりに海苔を巻かないでほしいと
この当時は、食品がそんなに買えなかったので、ストックしてあった米をしっかり食べていた記憶があります。
夫は昼食に食べるおにぎり2個、私は1個を、毎日仕事へ持っていきました。
私はおにぎりを会社の電子レンジで温めて食べることができましたが、夫は外で仕事をすることが多かったのでそうはいきませんでした。
避難している人の炊き出しの手伝いをしている時、寒さで足や手が冷たかったことも頻繁にあったようで、避難している人達に配られる、暖かいカレーや豚汁などを食べている姿を見て、
「いいな・・」
と思いながら、冷たくなっているおにぎりを食べながら仕事をしていたそうです。
ガソリンの消費を減らすために、夫は雨が強く降った日以外はずっと自転車で仕事に通っていました。
私の職場は、夫の職場より近い場所にあったので、歩いて行っていました。
ある時夫は、
「お母さん、おにぎりを海苔で巻かないでほしい」
と言い出しました。
私は、中の具材以外にも少しでも栄養を取れるようにと、夫のおにぎりには海苔を巻いて持たせていましたが、
「おにぎりを噛む時に、顎とこめかみが疲れてしまうから巻かなくていいよ」
と言うのです。
この時、夫の疲れはピークに達しているんだと感じました。
私はこの時、次にスーパーへ買い物へ行く時には、必ず肉や魚を買えるようにオープン数時間前から並ぼうと思ったのを、今でもスーパーで豚肉を手にした時に思い出します。
次の記事は、4月を迎え夫と子供達を長野へ迎えにいくことを書いています。