東日本大地震 福島での当時の生活【5回目】原発の爆発 ガソリンスタンドは長蛇の列
目次
震災後 自宅に戻ってからの日常生活
震災発生から3日後の朝も、夫はいつも通りに会社へ行きました。
しかし、いつもだとお弁当を持って出かけていましたが、ゆっくり昼食を食べる時間は取れないし、あまり食材を消費しないようにしようと夫と話し合い、この日からはおにぎりを3コ(中の具材を変えて1コは夕飯用)持っていく生活が始まりました。
私も、おにぎりを小さくにぎって、2コ会社へ持っていきました。
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東日本大地震 福島での当時の生活【4回目】浴槽の水が役にたった
子供部屋を覗くと、久しぶりに自分のベットで眠ることができて安心したせいか、娘も息子もまだぐっすり寝ていました。
起こすと可哀想なので、リビングのテーブルに書き置きをして会社へ向かいました。
震災の翌日からは学校も休校になっていて、いつ再開するかは分からない状況でした。
子供達が行っている学校や、自宅近所にある学校の体育館は、被害が大きかった人達の避難場所になっていました。
校庭では、炊き出しをしていたり、自衛隊の方々が水や食べ物を届けている光景を目にすることも多く、地元のニュースでも取り上げていました。
震災後初めての出社 机の上は震災当日のままでぐちゃぐちゃな状態
2011年3月14日は、震災当日以来の出社でした。
遠方から通っている人も多かったせいか、会社に来れない人も半数近くいました。
私は早めに出社して、自分の部署があるフロアを確認しました。
机の上は震災当日のままで、ぐちゃぐちゃな状態でした。
先ずは自分の机の上を片付けてから、県外にある支店の店長や同じ部署の責任者の人に電話を入れて、状況を確認しました。
この時はすでに固定電話も携帯電話も繋がっていたと思います。
福島第一原子力発電所 3号機の爆発
事務処理に追われている間、隣の席の女性社員が原発のことをとても気にしていて、常にインターネットで状況の確認をしていました。
私は仕事をしながら女性社員に向かって
「どんな状況?」
と、時々確認していました。
「汐里さん、3号機も爆発する可能性があります!」
と女性社員は言いました。
「え⁉︎ 本当に⁉︎」
とびっくりして、私は女性社員がパソコンで見ていたニュースを覗き込み、1号機が爆発した時の写真の下に書かれてある記事を目で追いながら、福島原発の現在の状況を確認しました。
するとそれから間もなくして、3号機の爆発のニュースが流れました。
「本当にこれからどうなっちゃうんだろう・・」
と思いながら外に目をやると、地震の揺れで屋根の瓦が落ちて、外壁に大きくヒビが入った近隣の家屋が視界に入ってきました。
「地震・・、原発の爆発・・」
の言葉が、頭の中をぐるぐるとループしていました。
そして窓へ向けていた視線を右の壁側に移した時に、東日本の地図が視界に入ってきました。
当時お世話になっていた会社は、福島県以外の近県3県に支店がありましたので、建築業という業種柄、地図で確認することが多くありましたので、フロア内に地図が掲示してありました。
私は地図に近寄り、福島第一原発が在る位置を確認しました。
目視ではありましたが、ざっと見て自分が住んでいるところから、直線距離で50〜60㎞くらいしかないことに気づきました。
「それ位の距離しか離れていないんだ・・」
と思いながら地図を黙って見ている背後で、
「この次は2号機も爆発の可能性が高いって!」
「4号機も危ないらしいよ!」
「いったい何号機まであるの? 全部爆発する可能性高いぞ!」
「そうなったらどうなっちゃうの⁉︎」
といった会話が、その場にいる社員達の間で交わされていました。
皆、不安な気持ちでいっぱいだったのだと思います。
ガソリンスタンドは長蛇の列
その間、会社内では前の晩に夫と話していたガソリンの話題もでていました。
他の社員で、手が空いた人は会社の車や、自分の車にガソリンを入れるためにスタンドへ向かいました。
オープンと同時にガソリンスタンドで給油してきた社員は、
「スタンドへ入るまで、どのお店もすごい列だし、10リットルしか給油できないよ」
と皆んなに伝えていました。
お昼休みに私もガソリンスタンドへ行こうと思っていましたが、
「お昼はもっと混み合うから、今すぐ行ったほうがいいよ」
と言われたので、まだ行っていない他の社員もすぐにガソリンスタンドへ向かいました。
1時間近く並んで、10リットル分をガソリンスタンドの人に給油してもらいました。
並んでいる途中でガソリンが切れてしまった車もあって、スタンドの人がポリタンクに入れてガソリンを運んで、給油してもらっている人もいました。
我が家では車を2台所有していましたが、2台ともハイオクガソリンの車でした。
しかし、この状況でハイオクガソリンはありませんでしたので、レギュラーガソリンを入れてもらうしかありませんでした。
当時私が乗っていた車はステーションワゴンだったので、給油タンクが60リットルくらい入る大きなもので、街中での走行距離は、6㎞/ℓというとても燃費の悪い車でした。
もともと半分より少し多く入っていたので、給油した後は、ガソリンのメモリは3分の2くらいまでになりました。
会社に戻ると、10リットルではすぐに無くなってしまうという不安から、2〜3回並んで入れてきたという人もいました。
貴重なガソリンの消費をなくすために
震災の時は特に、ガソリンが貴重なものでしたので、車社会の地方の生活では、ガソリンを無駄にできないということで、会社も休みにすることになりました。
当時お世話になっていたこの会社では、1時間かけて出勤している人が当時の社員の中では半数以上いましたので、会社から支給されている携帯電話で連絡を取れるようにしておくことと、お客様への対応も各担当がきちんと行うようにして、出社できる人は出社するということになりました。
私もこの日は、午後4時くらいまで仕事をしてから、自宅へ帰る途中に別のガソリンスタンドへ寄って、10リットルのガソリンを入れてもらいました。
これでほぼ満タンに近い状態でしたので、この日起きた福島原発3号機の爆発と原発までの距離を考えながら、万が一県外へ移動することになってもなんとかなるかな、と考えていました。
この時、ガソリンスタンドによっては、どんどん値段が上がっていくスタンドもありました。
それとは反対に、値段をそんなに上げない良心的なガソリンスタンドもありましたが、そういうお店は、やはり並んでいる列も長くて、自分の番になるまでに時間がかかるので、そこまで待たずに給油ができる金額が高いガソリンスタンドを選ぶかどうか、といったような状況でした。
物を買うにも制限がかけられて 悲しいニュースを目にすることも
この時期に報道されていたニュースで印象的だったのが、「車の中で待っている間、ガソリンの消費を減らすために車内で練炭を焚いて待っていたが、一酸化炭素中毒で亡くなってしまった人がいる」という、なんとも切なくなる報道でした。
この年は、寒さがいつもの年より続いていた記憶があります。
ガソリンだけでなく、どのお店に入るにも人数や時間の制限がかけられている上に、商品が無くなるとそこでその日は閉店になってしまうという状況だったので、お店がオープンする、早朝の寒い時間から並んでいた人が、このような形で命を落とす人も少なくはありませんでした。
それから、物を買うにも時間の制限や、1人何品までという制限からくるストレスからか、思うように買えない人達は、お店の人や購入者同士で揉めたりしていることも報道されていました。
次の日の天気予報をみて焦り始める
家に帰って、テレビから流れてくるニュースを確認しながら夕飯を作っていました。
天気予報も気になっていました。
会社でもインターネットで確認はしていましたが、どうやら明日の午後から雨が降り出すらしいのです。
実家の屋根の瓦は半分は落ちていましたので、私がお世話になっていた会社の下請けの業者に修理は頼んでいましたが、このような事態なので手がまわらず、実家の修理はだいぶ先になってしまうようでした。
更に高速道路は震災の影響で使えないので、物流もままならず、材料が入ってこない状況でした。
そこに追い討ちをかけるように、福島原発の爆発により放射線量の問題が大きく取り沙汰され、福島県内への流通を懸念する声が出始めていました。
3月11日以降の最初に降る雨に含まれる、放射線量の高さが大きいと耳にしていたので、不安が大きくなっていきました。
「明日の午後までに、実家の屋根をなんとかしないと」
と思いながら天気予報を見ていました。
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地震があってから初めての雨で、家族で実家の屋根にブルーシートを掛ける作業と、スーパーでの買い物の様子について書いています。