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ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

東日本大地震 福島での当時の生活【4回目】浴槽の水が役にたった

ゆうりん
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ゆうりん
成瀬汐里(ゆうりん)・1969年生まれ。50歳からの心と暮らしの整え方研究家。東京と地方の二拠点生活。ライフアドバイザー、マヤ暦ライフ研究家。30年間住宅関係の仕事と家事と子育てを両立しながら、家族のお弁当も毎日作り続けて管理職も経験。子育ても終わりサラリーマンを卒業し自分のやりたいことを始めた矢先の50歳に脊髄炎を発症。リハビリに励み、現在は日常生活ができるまでに克服。病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生や健康や家族についてじっくり考え「ゆっくり丁寧に毎日を過ごそう」と決意し、日常のことやマヤ暦のことをブログで発信している。 K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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震災の翌日から自宅の片付けを開始

東日本大震災が起こった次の日の朝、自宅に戻って片付けを再開しました。

昨日に引き続き停電は続いていましたが、ガスも水も使えなかったように記憶しています。

 

前回の記事

東日本大地震 福島での当時の生活【3回目】コンビニの商品が無くなっていく

 

先ずは、ほうきとちり取りで、床に散らばっているガラスの破片やプラスチックの破片を集めて、2重にしたゴミ袋へ入れました。

リビングや寝室はある程度取り除くことはできますが、キッチンは細かく割れたグラスやお皿の上に、ワカメと豆腐のおみそ汁の鍋がひっくり返っていて、その上に友人からカナダのお土産で貰ったメイプルシロップが入った瓶も破れてしまっていて、中のシロップがベタベタな状態で床一面に広がっていました。

メイプルシロップは固まってしまっている上に、ガラスの破片も入り混じっているので下手に触ると危ない状態でした。

この時はまだ寒さも続いていて、拭き掃除をするには冷たいだろうと思い、実家からヤカンにお湯を入れて持ってきていたので、お湯をかけながらゴム手袋と軍手をして取り去りました。

 

浴槽に溜めていた水が役に立った

リビングの床や廊下、他の部屋は、残ったお湯をバケツにあけて、浴槽に溜めてあった水でぬるま湯にしてから使いました。

トイレも浴槽の水を洗面器で汲んで流しました。

 

幸いなことに、この時期の朝はいつも浴槽のお湯で洗濯をしてからお風呂場の掃除して、凍結防止の為に水を溜めてから会社へ出勤してました。

まさかこんなことで、浴槽の水が使えるなんて思ってもいませんでした。

 

母親の作ったお味噌汁が冷えた体を温めてくれた

家の中は埃っぽくて、どの部屋も窓を全開にして片付けをしましたが、この時期は陽が照っていてもまだまだ気温が低いので、身体がどんどん冷えてきます。

そんな中でも、子供達も黙々と片付けをしていました。

 

昼食を取るために一旦実家に戻った時に、母親が用意していた昼食のお味噌汁が温かくて、全身に沁み渡るのを感じずにはいられませんでした。

子供達も片付けをしている時には、寒くても頑張って作業をしていましたが、お婆ちゃんが作ってくれたお味噌汁を飲みながら

「あったか〜い」

という言葉を口に出していました。

 

震災があった次の日に電気と水が復旧

昼食中にヤカンにお湯を沸かしておき、食べ終わってからまたそのヤカンごと車に積んで自宅へ向かいました。

相変わらずの寒さの中、片付け作業は続きましたが、周りの家から歓声が聞こえたので「なんだろう」と聞く耳を立てると、どうやら電気が復旧している様子でした。

急いでブレーカーの大もとを上げてみると、ビーという音の後にガスの警報機が再可動したアナウンスが流れ、突然スタンドの電気が点きました。

2階で片付けをしている子供達から

「電気が点いたんだねー!」

という声がしました。私も、

「そうだよ!嬉しいねー!」

と大きな声で、2階に居る子供達に聞こえるように答えました。

 

この時はある程度片付けは終わっていたので、直ぐに蓄熱暖房機と床暖のスイッチを入れてから、暖かさが逃げないようにすぐに窓を閉めました。

部屋が少しずつじんわりと暖かくなっていくのを感じながら、この時ほど電気の有難さを感じずにはいられませんでした。

そして

「当たり前のことって何一つもないんだな…」

と思ったのを記憶しています。

 

その後の夕方くらいには、水も出るようになりました。(少し記憶が曖昧ですが)

 

遅れて ようやくガスも使えるようになった

震災当日と翌日は実家に泊まって、その後は自宅で過ごせるようになったので、子供達や愛猫と愛犬と一緒に自宅に戻りました。

ガスがまだ使えないのでお風呂には入れませんでしたが、電気湯沸かしポットでお湯を沸かしてから洗面器にお湯と水を入れて、適温にしてからタオルで体を拭いていました。

 

震災の日の夜中から夫は帰ってきていませんので、帰ってきたら自宅でゆっくり休ませたいと思っていました。

ガスがようやく使えるようになったタイミングで、夫も帰ってくることができました。

 

ゆっくりお風呂に入ってもらおうと浴槽にお湯を張りましたが、地震の強い揺れの影響で浴槽の下に給湯器から出たサビのような細かいものが溜まっていて、お湯も濁っていたので、とても湯船に浸かれる状態ではありませんでした。

他の地域では断水で困っている人もたくさんいたので申し訳なかったのですが、溜めたお湯を捨ててもう一度お湯を張りました。

サビのようなものは少しは減りましたが、そのまま入ることにして、翌日は浴槽のお湯の上の方だけバケツでそっと汲み上げて洗濯に使いました。

そのサビのようなものが完全に無くなるまでは、10日以上かかったと思います。

 

当時使っていた給湯器は、17年選手でしたが頑張ってくれていました。

因みにこの時の給湯器は、2020年の夏まで使っていて26年間の現役を引退しました。

共に頑張ってくれた仲間としか、言いようがありません。

 

久しぶりに家族がそろっての食卓

夫も帰ってきて久しぶりに家族そろっての食卓でしたが、夫はだいぶ疲弊していました。

先ずはゆっくりとお風呂に入ってもらい、その間に急いで食事の準備をしました。

 

食材はわずかなもので工夫をして作りましたが、実家から分けてもらった野菜を使って冷蔵庫に残っていた卵を混ぜて”チャンプル”のようなものと冷蔵庫に常備していたワカメでお味噌汁を作り、炊飯器でご飯を炊いて久しぶりに家族で食卓を囲んだ記憶があります。

この時は、どこのスーパーも開いておらず、これから先食材をどう調達していいのか分からない状態でした。

食べ盛りの子供達もいますし、1人1コの目玉焼きは贅沢なメニューになってしまうので、いかに少しずつの食材でおかずを作り、次に食べるご飯のおかずのための材料を残しつつ、口に入れる食材の数を多くして栄養のバランスを取るかが課題でした。

夫の実家や私の実家からもらった米だけはたくさんあったので、具の少ないカレーやスープを作ったりして、満腹になるように工夫しました。

 

ガソリンと原発の心配

食事をしていると、夫が私に向かって

「お前の車、ガソリンはどうなっている?」

と言いました。私は、

「半分くらいは入っているかな」

と答えました。

 

すると夫は、

「今日帰って来るときに、ガソリンスタンドにも長蛇の列ができていたので、明日ガソリンを入れてきたほうがいいよ。俺は震災直後に、たまたまガソリンを入れられたからまだ大丈夫だけど、ガソリンを減らさないために明日から自転車で会社に行く」

と言いました。

 

私も翌日から仕事へ行く予定だったので、明日はとりあえず仕事には車で行って、お昼休みにガソリンを入れてこようと思いました。

 

この日の前日の3月12日に、福島第一原子力発電所が爆発を起こしていました。

3月11日の大きな揺れで、精神的にも体力的にも休まらない状態だった上に原発の心配もでてきて、これから先どうなってしまうのか私達家族もとても不安でした。

テレビから流れる情報は、震災の被害の大きさや津波、福島第一原子力発電所の爆発と、この頃から同じようなコマーシャルが何度も流れ始めたように思います。

そして、原発が地震よりとても大きな問題であることに気付いていくことになります。

 

次の記事は

原発が爆発した時の状況や、ガソリンスタンドでの給油について書いています。

 

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成瀬汐里(ゆうりん)・1969年生まれ。50歳からの心と暮らしの整え方研究家。東京と地方の二拠点生活。ライフアドバイザー、マヤ暦ライフ研究家。30年間住宅関係の仕事と家事と子育てを両立しながら、家族のお弁当も毎日作り続けて管理職も経験。子育ても終わりサラリーマンを卒業し自分のやりたいことを始めた矢先の50歳に脊髄炎を発症。リハビリに励み、現在は日常生活ができるまでに克服。病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生や健康や家族についてじっくり考え「ゆっくり丁寧に毎日を過ごそう」と決意し、日常のことやマヤ暦のことをブログで発信している。 K91 青い猿/青い嵐/音13 ガイド: 青い鷲
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