東日本大地震から10年 当時の福島での生活【7回目】県外へ移動する決断
目次
長野の友達から「こっちに来ない?」と連絡をもらう
誕生日の翌日の朝、前日にメールで連絡をもらっていた長野の友人と電話で話をしました。
友人は、福島第一原発1号機の爆発があってから福島に居る私達の家族を気にかけてくれて、それまでも何度かメールで連絡をもらっていました。
友人とは30年来の付き合いでしたが、ずっと連絡を取っていたかというとそうではありません。
しかし、長い間連絡を取らなくても、直ぐに学生の頃のように話ができる仲で、私の中では数少ない親友の1人でした。
その日の朝は、電話で友人とようやく話をすることができて、
「長野に避難してこない?」
という、有難いことを言ってくれました。
はじめの頃はそこまでは考えていませんでしたが、2回目におきた福島第一原発3号機の爆発から
「本気で友達の言葉に甘えようかな・・」
と考え始めました。
友人は、自分の家族や、親、兄妹に、私のことを話してくれていて、
「いつでも受け入れられるから、安心して長野に避難して」
と言ってくれました。
メールをもらい始めてから、夫ともそのことについて話をしていました。
夫は、
「俺はここを離れるわけにはいかない。しかしそう言ってくれるのであれば、本当にこれからどうなるのか分からないから、お前と子供達は長野へ避難させてもらったほうがいいかもしれない。」
と言っていました。
夫は仕事柄、郡山を離れるわけにはいきませんでした。
外での日常の空気感の違いを感じて
しばらくの間、ガソリンの消費を減らすために、車はほとんど使いませんでした。
この日も電話を切った後に、私はガソリンを減らしたくなかったので、会社へ歩いて行きました。
その間、車の数は今までと違って極端に少なく、会社に着くまで外を歩いている人は誰もいませんでした。
前の日と違ってこの日は天気は良かったのですが、風が強かったのと、今までの日常の空気感とは間違いなく違っていたのを思い出します。
会社の人も県外へ避難する人が出てきていた
会社に着くと、既に県外へ移動している人が出始めていました。
私の隣の女性事務員も既に前日の夜に、福島から県外の知り合いのところへ向かっていました。
私も不安になってきて、他にも移動を始めていた別の社員へ連絡を取り、どんな状況かを確認しました。
その社員は、高速道路は使えないので、一般道を使って埼玉県の親戚のところへ向かっている途中でした。
しかし、道路が大渋滞でなかなか進まないらしく、
「埼玉へ着く前にガソリンが底をついてしまうか心配をしながら移動しています」
という会話をしている電話の向こうから、小さな子供さんが、渋滞中の車の中でぐずる声が聞こえていました。
その場にいた他の社員達の中でも不安に思う人がでてきて、帰っていく人もいました。
私も午前中で仕事を終わらせてから、その日はお昼過ぎには家に帰りました。
長野へ避難をする決断をする
家に帰る途中、夫に電話をして長野の友達のところへ避難することを話しました。
そして家に着いてから、子供達へ荷造りをするように言った後に、私は自分の車に荷物を積みはじめました。
ある程度荷物が積み終わってから夕飯の用意をし、子供達も荷造りを終え2階から降りてきました。
夜の8時過ぎに夫が帰宅してから、家族揃って夕食を取りながら今後のことを話しました。
その日の夜はなかなか寝付けず、翌日に長野へ避難することを考えていました。
その時に考えていることで不安だったことは、
- 渋滞の中の移動で、燃費の悪い車のガソリンが長野までもつのか・・
- 夫や両親、愛犬愛猫をこのまま残して、私も避難をしてしまっていいのだろうか・・
- 愛犬や愛猫の世話を、仕事で疲れている夫一人だけに押し付けるわけにはいかない・・
これらのことを、ずっと考えていました。
私は郡山に残ることをことを選択
翌朝、家族で朝食を食べながら、今後更に状況が悪くなってきた場合は直ぐに長野へ避難できるように準備はしておいて、私は郡山に残ることを夫と子供達に話しました。
夫は少し驚いたように、
「それなら子供達も行かせなければいいんじゃないの? 家族がバラバラになってしまうのは嫌だよ。」
と言いました。
しかし私は、こんな状況の場所にこれから将来のある子供達を残しておくわけにはいかない、という気持ちが強かったです。
当時は福島に住んでいる私達が知らない情報がいろんなところから入ってきて、どうしていいか判断ができないことも多々ありました。
ただ、「このまま子供達をここにおいておくことは危険だ」とだけは感じました。
放射線量が分からない状況の中
2日前に、実家の屋根のシート掛けを家族総出で行った時に、放射線量が多かった話しを後から聞きました。
自分達はいいですが、そんな状況であることが分かれば子供は危険にさらさずに済んだのにと悔やまれましたが、インターネットなどで調べた内容を見ると、既にこの時点では屋内に避難させていたので少しは安心することができました。
しかし、周りでは県外へ避難する人が多くなっている状況を身近に感じていると、不安はどんどん大きくなっていったので、子供達だけでも避難させようと思いました。
新幹線が動いていた那須塩原駅までの道
その時は、新幹線は那須塩原駅までは動いていたので、荷物を積んでいる私の車では更に燃費が悪くなってしまうと思い、夫の車で子供達を那須塩原駅まで送ることにしました。
お昼ご飯を3人で食べてから出発しました。
使った分のガソリンは、栃木県へ行けば給油できるだろうと考えていましたが、甘かったです。
那須塩原駅へ行く途中、国道4号線を南下して行きましが、既に県外へ避難した人が多いせいか、走っている車がほとんどありませんでした。
那須塩原駅まで約60㎞くらいでしょうか、それまでにすれ違った車の数は12~3台くらいで、道を歩いている人は隣の須賀川市に入ってから、ビニールに入った5箱のBOXティッシュを持ったお婆さん1人だったと記憶しております。
人気のない状況は、なんとも言えない怖さを感じました。
福島県外であれば営業していると思っていたガソリンスタンドは、どこも営業はしていませんでした。
それどころか、ガソリンスタンド以外のお店も、どこも営業はしていませんでした。
那須塩原駅付近の駐車場はどこも満車
那須塩原駅へ到着をすると、駐車場はどこもいっぱいで、駅周辺には乗り捨てられていた車が道路の路肩にズラっと止まっていました。
この時は、「ずいぶん車があるな・・」くらいにしか思いませんでしたが、翌日のニュースで、避難するために乗り捨てられた車だったと知りました。
駐車場はどこも満車でしたので、駅周辺をぐるぐる回っていました。
那須塩原駅で管理していた駐車場の出入口に60代くらいの男性の係の人がいたので、車から降りて空いているところはないか尋ねました。
「子供を新幹線に乗せたいので、少しの時間停めさせてもらえないですか? どこも満車で・・」
とお願いすると、私と車の方を見て、
「新幹線ホームまで送ってくるだけならいいよ。1台だけあそこに空いているから」
と言いながら、空いている奥の方にあった駐車スペースの方を指をさして中へ入れてくれました。
車から荷物を下ろし、駐車場の出入口にあるプレハブの管理室の中にいた先程の係の人に挨拶をしながら、
「料金はおいくらですか?」
と尋ねると、
「戻ってきてからでいいよ」
と言われたので
「分かりました。ありがとうございます」
とお辞儀をして、急いで駅に向かいました。
この時は、本当にありがたかったです。
新幹線ホームで何故か涙が溢れてきて
そして新幹線のチケットを購入し、新幹線ホームに上がっていくと沢山の人がいました。
タイミング良く10分後くらいに出発する新幹線があったので、空いている座席を探しました。
この時は、全ての席は自由席だったかもしれません。(記憶が定かではありませんが)
子供達が並んで座れる席があったので、子供達を座らせた後、
「大宮で乗り換えて、長野新幹線(当時は)に乗り換えて・・、知らない人について行っちゃダメだからね!」
と、何度も説明をしました。
発車時間が近づいてきた頃に、私は新幹線の中から外へ出てホームから中に居る子供達を、ずっと見守っていました。
子供達は無邪気なもので、2人共ゲームをやっていました。
「大丈夫そうだな・・」
と少し安心をして、子供達を見ていると「プルルル」と発車のする合図の音が鳴り
「新幹線から離れてください」
とアナウンスが流れました。
何故か子供達を見ながら目頭が熱くなるのを感じ、涙が溢れてきました。
子供達を避難させられた安心感と寂しさと不安と、いろんな気持ちが溢れてきたのを覚えています。
そんな私を見て、子供達は少し驚いていました。
ドアが閉まり、少しずつ動き出した新幹線の中にいる子供達に向かって、歩きながらうなずいて手を振りました。
新幹線の通路には立っている人もいたので、周りの目もあってか、二人とも小さく手を上げてこちらを見ていました。
次第に新幹線は早くなっていき、どんどん前へ進んであっという間に見えなくなってしまいました。
子供達を見送った後、あんなに人がいた新幹線ホームには、私と駅員さんの2人だけしか残っていなかったので、更に寂しさを感じました。
駐車場の係の人の有難い対応に また涙が・・
階段を下りて改札を抜け、駐車場に着くまでは、人に会うことがありませんでした。
駐車場の出入口にあるプレハブの建物の窓から中にいる係の人に向かって声をかけました。
「ありがとうございました。本当に助かりました。料金はおいくらですか?」
と尋ねると、意外な応えが返ってきました。
「え⁉︎、あんた新幹線に乗らなかったのかい? てっきり子供達と一緒に新幹線に乗って行ったのかと思った。”戻ってくるから”と言って、皆んなそのまま行ってしまうからね。」
と。
「あ〜、お金はいいよ。長い時間停めていたわけでもないし、こんな時だからね。」
と言ってくれました。
私はこの時も胸が熱くなり、頬を伝う涙を指で拭いながら
「そうなんですね、いいんですか? ありがとうございます。」
と声にするのがやっとで、何度もお辞儀をしました。
「子供だけ行かせたのか・・。なんでこんなことになっちまったのかな・・。」
と、震災直後からの状況を確認するかのように話しかけてくれて、私はただ黙って頷いているだけでした。そして
「ありがとうございます。」
と応えた後、車に乗って駐車場を後にしました。
ほとんどの家が真っ暗で寂しさと怖さと
自宅に向かうまでの間もほとんど車にすれ違うことはありませんでした。
自宅に着くまであと少しという時には、夕方になっていて薄暗くなり始めていました。
高台の道路を走っている時に、たくさんの住宅が並んでいる一帯に目をやると、ほとんどの家が真っ暗で灯が点いている家はほんの数件でした。
「皆んな避難してしまったのかな・・。なんか怖いな・・。」
と思いながら、自宅へ向かいました。
自宅に着くと、愛犬が尻尾を振りながら走ってきて「おかえり」といってくれているようでした。
「ただいま〜」と言いながら愛犬を抱っこして少し遊んだあと、夕飯の準備を始めました。
少ない食材で作る夫と自分の食事の準備はたいした時間もかからずに出来てしまい、作った後愛犬と愛猫に餌をあげながら子供達がいなくなったガランとした家に、とても寂しさを感じました。
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