東日本大地震 福島での当時の生活【6回目】地震後初めての雨 屋根へシート掛け作業
目次
明日の午後から いよいよ雨が降ると分かって
夕飯の準備を終えてから、実家に向かいました。
「明日の午後から、予報では雨が降るね」
と両親と話合いました。
前回までの記事
↓
東日本大地震 福島での当時の生活【5回目】原発の爆発 ガソリンスタンドは長蛇の列
資料:「goo天気」より
父もそのことを気にかけていて、日中の間に、営業しているホームセンターを片っ端から回っていたようで、大きなブルーシートを何枚か購入していました。
私も会社の上司から、実家の屋根の修理がなかなか出来ないことを気にかけてもらい、大きなブルーシートを2枚もらってきていました。
「明日、私が手伝うよ」
と言って、父と翌朝の段取りを組みました。
午前中に終わらさねければいけないので、朝早くから作業に取り掛かり、子供達にも手伝ってもらうしかないと思いました。
夫は仕事があるので休めないと思い、動ける人だけで協力してやるしかありませんでした。
自宅に戻り、子供達に明日のことを伝えると2人とも
「分かった!」
と答えました。
作業当日の午前中 夫が仕事を休めたので助かった
夜遅くに夫が仕事から帰ってきてから、翌日の天気と実家の話をすると、
「今日の仕事中に天気予報を見ていて実家の屋根のことが気になったので、明日の午前中は休みをもらった」
と言ってくれました。
屋根の上に上がっての作業を、私と実家の父だけでやることはとても不安でしたが、そんなことは言っていられないと思いながら自分を奮い立たせていましたので、夫にも手伝ってもらえるのは、だいぶ気が楽になりました。
早朝から実家の屋根へ シート掛けの作業を開始
翌朝6時半から、家族総出で作業に取り掛かりました。
実家の父と夫は腰に安全ベルトを装着し、2階のベランダから屋根に梯子をかけて、屋根の上に登りました。
私は屋根まで登らずに、2人が登っていった梯子の途中で待機をして、そこから屋根の上で作業をする2人の様子を見ていました。
作業開始からすぐに、壊れた瓦の残骸を2人から受け取り、梯子からベランダに降りて庭(地面)に落としていました。
庭では子供達が、震災の時に落ちて散らばっていた破片を集めて、土嚢袋へ入れていました。
2人が居ない所へ
「落とすよ」
と言って、私は壊れた瓦を落としていました。
屋根の上で滑っていく父親を見て
梯子から、父親と夫の作業を見ている時に、父親の足が傾斜に沿って滑っていくのを見た時に、近くにいた夫が手を取って支えたので、落下を免れることがありました。
この時は、
「危ない!お父さん!」
という声を発することしかできず、夫のが近くにいて本当に良かったと思いました。
多分、高所恐怖症の私が屋根の上に上がっても、ただ上がっているだけで何もできなかったと思うので、父親が滑っていく姿を見ているだけだったかもしれません。
このことも、当時を振り返る記憶として忘れられないことの1つです。
買い出しを娘にお願いして
気付くと、母親が2階のベランダに立っていました。
「誰か買い物に行ってきてくれないかな」
と私に話しかけてきました。
この時は、自転車で15分くらいの所にある大きなスーパーが、買える品数、時間、人数、を制限して営業していました。
商品が無くなればそこで閉店になってしまうので、早い時間から並んでいる人を目にすることが結構どの店でもありました。
9時からの営業だったと記憶してます。
時計を見ると8時をまわっていたので、娘に自転車で行ってもらうことにしました。
母親は娘に買ってきて欲しい物のリストを渡し、追加があれば携帯電話で連絡を入れるようにしていました。
その後も、息子は一人で庭に落ちている瓦を拾い集め、私が時々落とした瓦も集めて土嚢袋へ入れる作業をしていました。
気がつくとお昼近くになっていて、娘が買い物から帰ってきました。
「お婆ちゃん、納豆は売っていなかった。豆腐は1つしか買えなかった。」
という会話が1階から聞こえてきました。
他に買ってきたものは思い出せませんが、昼食を食べながら娘から話を聞いた時に、時間制限で何人かの人達ずつ店内に入ることができ、買い物が終わったらまた何人かの人達が店内に入って買い物をする、という状況だったそうです。
娘が店の中に入れた時はもうあまり品数もなくて、少し後の人は商品が無くなってしまったので、入店することすら出来なかったそうです。
買い物ができただけでも良かった、と言っていました。
いよいよ雨が降ってきた! ギリギリ間に合った!
お昼近くになって、ポツリポツリと雨が降り始めました。
急いで私は子供達に向かって、
「片付けはもういいから中に入りなさい! 雨に濡れないようにして!」
と強い口調で言いました。
子供達は急いで家の中に入りました。
父親と夫の屋根の上での作業は、あと少しで終わりそうでした。
ブルーシートが風で飛ばないように、2人は工夫をしながらシートを固定させる作業を黙々としていました。
雨が少しずつ降り始めた頃に、ようやく作業は終わりました。
家の中へ入り、父は家の周りをもう一度確認するために外へ出ていきました。
その間、夫にはお風呂に入ってもらいました。
外で父親が何か作業を始めたので、
「手伝おうか?」
と声をかけましたが、
「いや、お前は中に入ってろ」
と雨に濡れながら作業をしている父親に言われ、そのまま玄関ポーチで雨に濡れないように立ったまま、作業している様子を見ていました。
家の中から
「あがったよ〜」
と夫の声がしたので、父親に
「次、お風呂に入りなよ」
と声をかけました。
「おう!」
と言って、作業を続けていた父親が
「もうこのくらいでいいか、大雨にならないといいな・・」
と言いながら家の中に入り、お風呂に入っていきました。
雨が強くなってきた外を見て一安心
母親と子供達は昼食の準備をしていました。
私は濡れたままなので部屋には入らずに、玄関を片付けながら父親がお風呂から上がってくるのを待っていました。
父親から
「上がったぞ」
と声をかけられたのでそのまま洗面所へいき、夫と父親と私が作業中に着ていた服を洗濯機の中へ入れて、すぐに洗濯を始めました。
私がお風呂から上がってから、皆んなでテレビを見ながら昼食を食べ始めました。
父親も夫も私もお風呂に入った後で身体に疲れがでているのか、それとも、何とか雨が強くなる前に作業が終わったことで安心したのか、口数が少なかったことを記憶しています。
外を見ながら、
「何とか間に合って良かったな」
と夫も父親も口にしていました。
忘れられない誕生日
テレビを見ながら母親だけが何かを話していましたが、私達はあまり会話をすることなく食事をしていました。
テレビの報道では、地震や津波で被害にあった映像が、次々と流れていました。
そこに、福島第一原発の爆発の衝撃的な映像も加えられていて、「復旧」という言葉から、どんどん遠ざかっていくように感じました。
5日前までの穏やかな日常、本来であれば卒業式シーズンであるはずなのに、震災があった瞬間からそんな時期だったことも頭に浮かんできませんでした。
夫が突然、
「あ、今日はお母さんの誕生日だったね」
と私に向かって言いました。
私も
「あ、そうだったね・・」
と返しましたが、私も夫も
「こんな時だから、”おめでとう” の言葉は無しにしよう」
と言いました。
この年の誕生日は、一生記憶に残る誕生日となりました。
豆腐1丁が とても貴重に思えた
この日の雨は強くはならずに、夕方まで(記憶が定かではありませんが)続いていたように思います。
娘も大変な状況の中買い物へ行ってくれたので、この日の昼食には、父親と夫へ冷奴が1/4ずつ分けられ、残りは長ネギと油揚げのお味噌汁の中に入っていました。
おかずは、母親があるもので工夫をして作ってくれていました。
この時、娘が買ってきてくれた「豆腐1丁」で、家族が無事で、食卓を囲める暖かい時間を過ごせることは幸せなことだと、テレビの映像を見ながら感じていました。
夫も私も昼食を食べた後に職場へ
昼食を食べたあと、夫は職場へ向かいました。
私も仕事柄、雨が気になり会社へ向かいました。
この日は私も夕方まで仕事をして、私と子供達は夕飯を実家で食べてから自宅へ帰りました。
夫は遅くに仕事から帰ってきました。
すぐにお風呂に入り、実家で分けてもらったご飯とおかずを食べた後、だいぶ疲れていたようで、すぐに寝室で休みました。
私はニュースを見ながら、片付けをしました。
「これからどうなっていくんだろう」
と不安な気持ちでした。
そんな時に、長野に住む友達から、心配のメールと誕生日のお祝いのメールが届いていることに気がつきました。
そして、翌日に知らされる現実に、世の中には出ていない情報がたくさんあるんだと感じ、決断をすることになります。
次回に記します。