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ー 50歳からの心と暮らしの整え方 ー 成瀬汐里のブログ

東日本大地震 福島での当時の生活【1回目】震災当日は映画を観ているようでした

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成瀬汐里(なるせゆうり)1969年生まれ。人生再設計プロデューサー|2011年3月、東日本大震災を経験。福島で被災。日常の当たり前を覆す経験を目の当たりにし、死生観について真剣に考えさせられる。震災により、会社存続の危機に立った状況で、東日本に在る5店舗の工程管理を一人で行い、社員を一人も辞めさせることなくV字回復を達成。仮設住宅工事で、裏方としても福島復興に尽力。30年間住宅業界に従事し管理職を経験、家事や子育ても両立しながら家族のお弁当を27年間作り続ける。​2015年から拠点を東京に移し、2016年から人生を変える決断をし、理系と医療系の大学生2人の子供を抱えながら、自己資金なしコネなしで不動産投資の勉強を開始。読んだ本は100冊以上。時間とお金の使い方をガラリと変え、頭金200万円を貯め​、アパート1棟を購入し不動産投資をスタート。​会社員時代の2018年起業、2019年に独立。しかし半年後に腹部に痛みを感じ、わずか10日間で歩行困難に。「脊髄炎」と診断。人生初の長期入院を経験。どん底の経験を味わう。1年半の病気療養とリハビリを経て、奇跡的にほぼ完治。体が丈夫であることが取り得だと過信していたが、病気療養という「人生の休憩時間」を持てたことで、自分の人生、健康、家族についてじっくり考える機会に。病気を機に不動産投資以外、全てを手放し、"自分の人生を生きる"ための、人生の再設計を実践。マヤ暦にも出逢い、わずか4ヶ月でアドバイザー受験資格を得る。セッションモニター募集で、初回に33名が申し込み。年に数回しか行わない、マヤ暦初級講座やダイアリー作成会(常に満席)は、スピリチュアルだけではなく、人間学的な観点から「おもしろい」「ここからの人生観が変わる!」という感想を寄せる人が続出。現実とスピリチュアルの両方から見る観点も、希望をもって未来へ進むには大切であることを常々考えていた時、ポジティブ心理学に出逢う。​​現在は、「心とお金は繋がっている」を提唱し、"その人"の心の在り方を大切にしながら、会社員時代に副業でお金の認定講師を経験したことも活かし、自分ファーストで生きる女性を増やすための活動として、心とお金を整え自分の可能性(種)を見つける、人生再設計プロデューサーとして「ジブン未来STORY」を主宰。他にも、起業コンサルタントとして活動し、自分では気付かない可能性を見つけ、マネタイズへ繋げる伴走を行なっている。オンライン起業の教科書「マイ・メッセージ認定コーチ」としても活動。不動産投資家としての顔も持ち、不動産投資コンサルタントや講座も行なっている。東京と福島の2拠点生活をしながら、認知症の母を父と介護をし、夫や子供との時間も大切にしている。​​保有資格ニューヨークライフバランス研究所ポジティブ心理学コーチファイナンシャルプランナー​​マヤ暦アドバイザー​インテリアコーディネーター​オンラインビジネスの教科書マイ・メッセージ認定コーチ健康食コーディネーター​​整理収納アドバイザー​​座右の銘:自分の可能性を諦めない​マヤ暦KINナンバー:K91青い猿/青い嵐/音13ガイド:青い鷲
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東日本大震災から10年経った今朝を迎えて

今朝は穏やかな暖かい朝を迎えています。

朝の情報番組では、早くも日本国内で桜の開花が観られると伝えていました。

3月の声を聞くと、長い冬が終わりようやく春がやってきたようで気持ちがウキウキします。

そんな気持ちで、桜の開花が始まる穏やかな今朝を迎えていますが、10年前の今日もそうでした。

今日で東日本大震災から10年を迎えます。

 

10年前の今日 福島県郡山市で中学校の卒業式を迎えていました

10年前の当時、私は福島県の郡山市に住んでいました。

郡山市は福島県のほぼ真ん中に位置した中核市です。

福島県は全国で4番目に大きく、

  • 海沿いの「浜通り」
  • 私が住んでいた「中通り」
  • 新潟県と隣り合っている山沿いの「会津地方」

と縦に3つの地域に分けられます。

 

10年前の今日は、今朝のような暖かい日ではなく、気温も低く寒くて薄曇りの天気だったように記憶しています。

当時の我が家の子供たちは、娘は高校2年生、息子は中学2年生でした。

そして息子が通う中学校では、卒業式が行われた日でした。

 

息子は部活では副部長をしておりましたので、親が父兄の役員になることになっていました。

なのでその日私は、朝、会社にいつも通りに出社をして、10時半から13時半くらいまで時間休をもらい、後輩から卒業をする先輩方々へ渡す花束を届ける役割りをしていました。

 

体育館で行われた卒業式が終わってから、校庭で先輩と後輩が向き合って一列に並び、

「今までありがとうございました!先輩ご卒業おめでとうございます!」

と後輩である息子も含めた在校生が、一斉に声を揃えてお辞儀をしてから、先輩方々へ花束を渡している姿に、目頭を熱くしながら他の父兄の方々と見ていたことを思い出します。

 

震災当日はコロコロ変わる変な天気だった

その後に、私は会社に戻りましたが、その戻る途中で急に晴れ間が差してきました。

校庭で息子たちと卒業生を待っていた時には曇っていて気温も低く寒かったので、

「もっと早く晴れてくれれば良かったのに」

と思いました。

しかし、またすぐに薄暗くなり、横殴りの雪が降り始めました。

 

会社に着くと、また晴れてきましたが、横殴りの雪がまた降り始めました。

コロコロ変わる天気に「変な天気だな」と思いながら、自分で作ってきていたお弁当を食べ終わってからすぐに、仕事を始めました。

 

しばらくパソコンに向かい仕事に集中し、ふと外に目をやると、安定した陽が差しこんでいました。

なんとなく気持ちも穏やかになりながら、時間休分を取り戻そうと、たまっていた仕事を処理しながら、いつも通りの仕事を続けました。

 

突然一斉に鳴り出す携帯電話の警報音

しばらくすると、突然携帯電話から、けたたましい警報音が一斉に鳴りだしました。

会社から支給されている携帯電話と、個人の携帯電話を殆どの人が2台持ちだったので、音の強さが増して全員が驚きを隠せない様子でした。

 

今でこそ警報音が鳴ると直ぐに危険を察知するようになりましたが、その当時は「なに?なに?」といった感じで、瞬時に判断できない人も中にはいました。

当時、警報音が鳴る携帯電話と鳴らない携帯電話もあったように記憶しています。

 

私は数日前の休日に、家族と大きなショッピングモールへ出かけていた時に、自分の携帯電話からその警報音を耳にしました。

その直後に震度3か4くらいの揺れを感じ、陳列棚から商品がいくつか落ちてきたのを体験していたので、またそれくらい大きな地震がくるのだと思い「地震がくるかも!」と叫びました。

 

まるで映画を観ているかのような大きな揺れの恐怖

するとすぐに震度6弱〜強の揺れが始まり、机の上に置いてあるものは全て倒れ始めた次に、机も移動し始めました。

私の机の後ろ側には、資料が入れてある大きなキャビネットが置いてあったので、扉が開いて中の資料が落ちてきたら大変だと思いハラハラしながら、仕事で使っているノートパソコンに接続していた充電ケーブルを急いで外し、ノートパソコンの本体を持ったまま大きな揺れを感じながら、靴も履かずに外の駐車場へ逃げました。

 

職場の人達が何人か、建物の前にある会社の駐車場の真ん中に集まりました。

すると、駐車場の周りに建っている近隣の家の瓦が落ちたり、地震による振動のねじれで、壁がバリバリと音をたてて亀裂が入っていくのを目の当たりにしました。

まるで、映画を観ているようでもあり恐怖で私は声も出ませんでした。

その場にいた職場の人達の中には、「怖い!」と言いながら泣いてしまう人もいました。

 

ようやく揺れがおさまった後、あまりにも長い揺れが続いた後だったので、皆口々に「怖かった…」と呟きながら、一呼吸した後に、会社の建物の方へ歩きだしました。

3〜4歩進んだ時に、また大きな揺れが始まったので、急いで駐車場の真ん中に戻りました。

 

すると、またさっきと同じ震度6弱〜強の揺れが始まったと同時に、近隣の家の壁が大きな音を立てて更に亀裂が入っていきました。

一緒に立っていた何人かの事務員の女性は、怖さで立てなくなってしまいその場に泣きながら座り込んでしまいました。

その周りを囲むようにして、私や他の人達は揺れを感じながら立っているしかありませんでした。

 

更に、会社の奥の社員用の駐車場へ向かう途中にある、高さ3メートルくらいの擁壁のジョイントの部分から、大量の泥水が吹き出してきて、私達が避難していた駐車場の方へ流れてきたので、駐車場のアスファルトが水をまいたようにびちゃびちゃなりました。

この2回目の揺れも長かったのを覚えていますが、3回目の震度6弱〜強の揺れは怖さでどれくらいの長さだったかはあまり覚えていません。

 

建物の中はぐちゃぐちゃで分刻みで余震が続き…

ようやく、揺れが落ち着きはしたものの、今度は余震が頻繁に起こるのでぐちゃぐちゃになった事務所を片付けるわけにもいきませんでした。

外出していた同僚や部下に連絡を取りたくても、携帯電話や固定電話は繋がらない状態でしたので、社長やマネージャーの指示で、全員一旦帰宅するようにと伝えられました。

 

家族や家で留守番をしている愛猫、愛犬、家はどうなっているのか、帰宅途中の車の中で心配の念が込み上げてくるのを抑えずにはいられない中、瓦礫や倒れた塀で塞がれている道路を迂回しながら家へ急ぎました。

 

次の記事は

自宅、愛猫、愛犬、息子の無事が確認できたことと、ランドセルの小学生に助けられたことを書いています。

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